今、サッカーのワールドカップ出場で、話題が持ちきり。
先日おこなわれた、開催国ドイツとの親善試合で、2対2の引き分けに終わった事が、相手が優勝候補のドイツだけに大騒ぎでした。
でも、今でこそワールドカップに連続で出場するようになった日本ですが、今月17日より封切られる映画『バルトの楽園』の史実の1エピソードが、その時のドイツ捕虜によって初めて日本にサッカーが伝えられたという事は、意外に知られていません。
第一次大戦の終戦時、中国で日本軍に捕虜になった、4700人のうち、約1500人が、徳島の収容所に拘束されたのです。その時の収容所所長が、会津出身の松江少佐。
当時の日本陸軍は、薩摩、長州の軍閥が幅をきかせ、明治維新の時賊軍にされた、会津藩出身者は、理不尽な扱いに苦しみ続けます。
この時、収容所所長の松江少佐も、上官からは、捕虜に対し過酷な扱いを強要されますが、彼は上官の意に背き、国際条約で決められた人道的な扱いを貫きます。
捕虜達は、自由が与えられ、徳島市民との交流も生まれ、その時初めて日本において、バームクーヘンが焼かれ、ビールが造られ、サッカーの試合が行われるようになったのです。
そして、帰国が許され、徳島を離れるようになった捕虜達の中から、収容所所長をはじめ、所員や市民への感謝の気持ちを表す為、オーケストラのコンサートが開かれる事になり、その時初めて、日本でベートーベンの“第九交響曲”が演奏されたのです。
本来、戦い合い、殺し合う立場の軍人達(バルト・“髭”)ですら、民族、宗教、立場を乗り越え、分かり合え、許し合ったところに華やかな文化が生まれる。・・・
その事を伝えようとしているのでは、・・・と私は感じています。